小 熊 座 句集 『夜の崖』 佐藤鬼房
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    昭和26年 鬼房       六林男宅にて「梟」同人      絵はがき 山田美穂さん提供





       句集『夜の崖』佐藤鬼房 昭和26年〜29年



        序                  西東 三鬼
  
  鬼房君の第一句集『名もなき日夜』の序文に、私は次のやうに書いた。
 「極北の風はオホーツク海、千島、北海道を経て日本東北地方のあらゆる岩石を風化す
 る。そこに一人の男(男以外の何物でもない男)が、極北の風の風化を避けるために、両

 の腕をもって左右の胴を打ち、両の足を交互にたたら踏んで、口からは蒸気のやうな白い
 息を無限に吐く。灰のやうに微細、極小の吹雪が、忽ちその男を塗りつぶす。しかし、私は

 聞く、彼の左腕が打つ右の胴の音、右腕が打つ左の胴の音、ガリバーの靴が踏む大地の
 音、洞穴のやうなロを出る息の音。さういふ音が鬼房の俳句だ。(後略)」

  『名もなき日夜』以後の三年、鬼房君は一句毎に、自らの進むべき道を拓きつゞけた。そ
 れは現代俳句の課題として、最も困難な宿題であった。観念と俳句とは、本質的に溶融し

 難い。観念俳句といふものは短歌の劣等遺伝である。鬼房君は俳句性に従ひつゝ、観念を
 生かす方法を発見してゆかねばならない。そして彼は自ら選んだ道を今も尚、歩き続けて

 ゐる。鬼房君のこの全身的な努力に対して、現代俳句協会は昭和二十九年度の協会賞を贈
 り、天狼俳句会は次代を負ふ作家として、新同人に迎へたのである。
  私はこの二つの事が、彼の重荷となるとは思はない。彼の肩の骨は強健である。
 『名もなき日夜』に

     潮汲みの耳とがらせて断乎たり

   といふ句がある。私は十年来の句友が、今後も断乎たることを期待してゐる。
                            
                             (昭和二十九年十二月三十一日)






    
  

  2004年10月句碑が塩竃市赤坂交差点に建つ

  縄とびの寒暮傷みし馬車通る  鬼房



  除幕式のふじゑ夫人(右)







      『夜の崖』抄  
佐藤 鬼房 (自選)

        除雪婦へ死の闇死者らよみがへる

       青年へ愛なき冬木日曇る

       吾ありて泛ぶ薄氷声なき声

       一の沢周辺に鴨「子取ろ」の唄

       縄とびの寒暮傷みし馬車通る

       鶺鴒の一瞬われに岩残る

       隙間雪孤絶の創を炎やしをり

       除夜いまだ「静かなるドン」読みすすむ

       雪ずるいま背後に何の翔びたちし

       怒りの詩沼は氷りて厚さ増す

       寒夜の川逆流れ満ち夫婦の刻

       友ら護岸の岩組む午前スターリン死す

       冬山が抱く没日よ魚売る母

       戦あるかと幼な言葉の息白し

       齢来て娶るや寒き夜の崖

       夜の梅がひつそりビキニ環礁泣く

       この飢や遠くに山羊と蹴球と

       彼のボスか花火さかんに湾焦がす

       子の寝顔這ふ蛍火よ食へざる詩






        抜             鈴木六林男


    『夜の崖』は、身辺に文学の友をもたない佐藤鬼房が一対百万の意気込みで精進してきた
   激しい作家精神の集積である。

    佐藤が昭和二十六年に『名もなき日夜』を出したとき、僕はその政文の中で次のやうな
   ことを書いた。

      佐藤はかなしい人間である。
      『名もなき日夜』 はかなしい句集である。

      新興俳句発生以来の歴史もさることながら、それにもまして佐藤の歴史は憂鬱な歴
     史であった。
      彼は僕の友人の中では年齢の若さに似ず多くの苦難の道を歩いてきてゐる。
      幼少時の変転や戦争を契機とする青春の彷径や貧苦やの中で生きるための激しい戦
      を闘ってきてゐる。彼の過去三十年は誠に不遇な歳月であった。
      然し彼は如何なるときにも、こころのやさしさを矢はぬ人間であり、『名もなき日夜』
      を通じて言へることは、彼は彼の過去を基盤としてすべてを愛に帰結せしめてゐると
      言ふことである。
      幼少時の逆境と、生死を晒してきた戦場生活の果てに身上として得たものは愛であ
      った。
      愛はかなしさであり、きびしきである。僕は最初、佐藤はかなしい人間であり、『名
      もなき日夜』はかなしい句集であると書いたのもそのためである。


   それ以後の約四年間、この『夜の崖』に至るまで佐藤鬼房の作家活動は熄むことなく鮮
  烈な光彩を放ってわれわれ三十世代が指向する俳句の先頭にあって牽引車的業績を残して
  きた。

   彼に会ったのは、今から一昔以上も前で、太平洋戦争が勃発して間のない昭和十六年の、
  南京市政府の建物が異様なまでに煌々とともり、すぐ近くのひとけのない光華門には戦没
  者に捧げられた白い破れ提灯が氷雨の中にブラブラしてゐた十二月二十七日の夕刻であっ
  た。漢ロから上海へ揚子江を下る途中、彼を南京の光華門外に探し訪ねたのである。

   こんな背景の中で僕達は初めて出会ひ、その数十分後にはお互に南の新戦場へ行く運命
  をもって別れてゐた。
   あの時以来、二人はそれぞれの自然や人間の暴威の中を今日まで生きのびてきたのだが、
  僕は多くのことをこの友人から受けることがあつても、何も与へるものがなく、特に彼の
  強靭な行動力は常に一本の鞭となって今も僕をはげましてくれてゐる。

   彼は多くの期待と激動の中に本年度の現代俳句協会賞を受けたことはその選考経過から
  推して妥当なものであったし、とくに今後を期待される作家としての行動力については候
  補者中随一と言ってよく、僕は彼の受賞を自分のことのやうに感激した。未来に向つてゆ
  く彼の展開方法は俳壇の収穫となって残ってもらひ度いと思ふし、又それに応じ得る彼で
  あると思ってゐる。

   (極く年少の頃から漠然とではあれ、リアリズムの方向に身を置いてきた僕はもはやい
  かなることがあらうと、その哲学観、文学観が他の全く異った観念の世界に飛躍すること
  はないであらう。今日、社会的リアリズムと心理的リアリズムが殆ど相容れないといふ大
  きな誤謬は文学としての俳句の悲劇である。)と、彼は「風」本年三月号にその所信を表明
  している。鬼屏俳句が指向する社会主義的リアリズムの文学的ウル・グルンドがこの辺に
  存在してゐよう。彼の場合『名もなき日夜』の根底を流れてゐるヒューマニズムがさらに
  自覚によって自己改造の過程をたどりつゝ『夜の崖』のバックボーンとしての社会主義的 
  リアリズムにそれは鮮明に移行してゐると理解すべきである。

   更に彼は社会的事象と取組むことによって、自己にとって切実な問題をつきつめ、掘り
  さげ、切り開いてゆく過程のなかで、俳句にまつわる俳句的悪霊からの血路を作家の任務
  として鬼ださうとしてゐるのである。

   『名もなき日夜』のかなしき(きびしき)の中にひそんでゐた鬼房俳句の猛々しさは、『夜
  の崖』 に至っていよいよその頭角を現し、何のへんてつも、愛想もない、三十もなかばす
  ぎた、しかも男のぶっきらぼうな強烈な世界が今後を賭けて展開されてゆくことであらう。


                                       一九五四年一二月一二日





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